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2017年6月 3日 (土)

0泊3日の第一目的

なんかひんやりしていた。

布団を薄いのに変えてももう大丈夫だろう、と思ったけれど、さぶっ!という感じだった。

でも、日中は晴れて気持ちよかった。

まだ湿度もそんなにないからいい。

うろこ雲が気に入った。

さて、0泊3日の第一目的とは何だったか?

それは、これ。

ミュシャというチェコの画家の展示会。

数年前、絵のことを勉強した時に、何人かの画家が気に入った。

そのうちの一人が、このミュシャ。

GWの時に、ミュシャの版画を使って時計を作った。

もちろん、今も稼働中。

そう、そういう感じで好きなのである。

特に、彼の残したリトグラフは華やか。観ていて気持ちいい!

この展示のことを去年知った時、なんとしても行きたい!と思っていた。

開催期間は3ヶ月ほど。

きっといいタイミングで行けるだろう、と思っていたのだけれど、なかなかその機会が訪れなかった。

そう思っているうちに、来週には終わってしまう...この機会を逃すと...

どうしようどうしよう、と悩んだ。

悩んだ理由。

それは、ミュシャの版画はいいな、と思っていたけれど、スラヴ叙事詩はちょっと違う思いがあった。

ぶっちゃけ、版画だけなら、大阪にミュシャ専門の美術館がある。
そこに行けばいい。

でも、スラヴ叙事詩は違う。

これをちゃんと観たかったら、彼の母国チェコに行かないといけない。

でも、それが今、日本に来ているのである。

なんで大阪にも来てくれないの??という思いもあった。
そんなこと言っても仕方ないけれど。(苦笑)

8mサイズの絵なので、迫力はあるだろうし、そんな絵ってしょっちゅう観られないだろうし、ましてや、日本では生きているうちにもう観れないのは間違いない。

だから、観てみたい、という思いもある一方、そのメインのスラヴ叙事詩に関してはあまりいい印象を抱いていなかったので、果たして東京までわざわざ行く価値はあるのだろうか?と。

いい印象を抱いていなかった理由は、スラヴ叙事詩の描かれた背景や絵そのものがあまりにも「重くて」「暗い」から。

歴史的なことはよくわかっていないけれど、歴史的背景をざっくりと見てみると、民族的には決して希望に満ちた歴史ではなかった。

その大変だった歴史を20枚という巨大な絵に残そうとしたミュシャ。

画集で見る限り、決して華やかではないし、先述の通り、重くて暗い。

どうせだったら、幸せ気分になるような絵を観たいもの。(笑)

そういう思いがあったから、踏ん切りがつかなかったのである。

でも、もう終わってしまうし、一生観られないかもしれない、と数時間葛藤。

結果、バスも手頃なものがあったし、よくよく考えると、そんなにハチャメチャにコストがかかるわけではない。

例えば、大阪で開催されたとしても、電車代は掛かる。

それが、東京までで往復7,000円ほどだったら、そんなにすごくお金がかかるというわけでもない。

週末は激混みは間違いないから、やはり平日。

ということで、急遽、木曜日に行くことになった次第。

東京到着までは、昨日のBlogに書いた。

その続き。

東京駅から、六本木のこの美術館まで歩いた。

1時間ほど。

そのお陰で、久しぶりの東京の空気を感じられた。

写真を撮るようになってから、どこに行っても、できるだけ歩くようにしている。

時間の短縮を考えれば、なんらかの交通手段を使った方がいいのはわかっている。

でも、歩くことによって気付くことが色々とあるから、長時間でない限り、歩くようにしている。

開場1時間ほど前に到着だから、余裕だろう、と思っていたら、既に100人位並んでいた!(笑)

皆さん、すごい。

入口は、正面だけではなく、裏側もあるので、両方合わせたら結構な数になっただろう。

開場前に、既にこうやって美術館内に入って整列。

実物大のポスター。

時間はちゃんと見ていなかったけれど、10時前から入ることになったのではないだろうか?

僕は、事前にネットでチケット購入済み。

スマホにダウンロードしたチケットを見せて読み取ってもらう。便利な時代だ。

いよいよ、いよいよ、スラヴ叙事詩とご対面!

僕はてっきり、彼の代表的な版画が最初で、最後にスラヴ叙事詩だと思っていた。

そういう思い込みがあった状態で会場に入ると、いきなりスラヴ叙事詩!

え???とかなり驚いた。

だって、予想に反してあんな大きな絵がいきなり目の前に現れたのだから。

スラヴ叙事詩の第1作品を目にし、心の底から感動。

鳥肌が立ち(その時のことを思い出すだけで、今も鳥肌が立っている(笑))、やっと観られた、いや、逢えた、という思い。

そして、思わず涙が出そうだった。

僕はそんなに美術館巡りはしていないし、一流の人の絵もそんなに見ていない。

思い出すと、超有名な画家としては、10年ほど前の上野のダリ展を観たくらいだ。

これは、ダリが目的というより、Hayleyがイメージ歌手として使われていたから、という理由だったし。(笑)

閑話休題。

とにかく、スラヴ叙事詩の絵の迫力に釘付け。

あまりにもの大きさに驚きと、こういうものを20作品も残したという偉業に驚いた。

必ずしも、作品の順番通りの並びではなかった。セクションは3つに分かれていた。

1~6、7~14と16、15と17~20。

まだ最初の方だったので、人もそんなにいなかったので見やすかった。

まずは全体を観ようと思って、全て回った。

でも、なかなか次に進めない、すごすぎて。(笑)

この展示会の面白いところは、最後のセクションだけ、撮影可能となっていたこと。

だから、こうやって堂々と撮影できる。

この頃はまだ人が少なかった。

このくらいの人数でずーっと鑑賞できればよかったんだけれどね。でも・・・

これが最後の作品。

人が多く集まっていた。人気だね。

しばらくすると、こんな感じで人でごった返していた。

ひと通り見たので、とりあえず他のものも観ておこうと思って、次の部屋へ。

そこには、彼にとっての有名な、商業的な、版画ポスター群が。

僕の好きな、四つの花、四芸術もあったし、ビザンティン風の頭部、もちろん、サラ・ベルナールのものもあった。

僕の好きな四芸術の中のダンスが生で観られて嬉しかった。

もうちょっと、この4つの組作品があればよかったのだけれど。

それ以外には、画集にはあまり収められていない作品群や習作が色々とあった。

線だけの下絵があった。

それを観て改めて思った。

彼のこの手の絵って、アニメ調だなって。時代の先駆けだ。

あと、大きな鏡があって、ミュシャの絵を見ながら、身支度するって贅沢だな、と思った。こんな鏡ほしい!(笑)

一通り観て、印象が何もかも変わってしまった。

それくらい、スラヴ叙事詩がすごかったのである。

リトグラフが色あせて見えるくらい。

もう既に出ている人たちが結構いたけれど、僕はまたスラヴ叙事詩に戻った。

そこから、何度も何度も部屋を行き来した。

一体何度行き来しただろう?

観るごとに、思うこと、新たな発見があった。

まず、見せ方。

会場は全体的に薄暗い。

それでも、絵が「浮かび上がって」きちんと見えている。

不思議。

壁の色が、暗い紫系の色だったから良かったんだろうね。
壁の色が白とかだったら、また随分と印象が変わっただろう。

更に不思議だったのが、絵の中の明るい部分がより際立って見えていたこと。

照明ってたったのこれだけなのに。

それでああいう感じで見せられるのだから、不思議で仕方なかった。

なかなか照明まで見ている人もいないようで。(笑)

さすがプロの見せ方だな、と思わされた。

結果的に、10時入場、12時過ぎに退場であった。

そのうちの2時間弱をスラヴ叙事詩鑑賞に費やした。

最長の人はどのくらいなのかわからないけれど、僕くらいいた人もそんなにいないのでは?

思ったことは後述。

とにかく、今回はこのスラヴ叙事詩の凄さにノックアウト。

はるばる姫路から行って本当によかった、と思った展示会だった。

グッズ売り場は、人でごった返していた。

気になったのは、本に挟むしおりくらいだったかな。

あとは、額装入りの絵。
スラヴ叙事詩もあったけれど、会場のものとは違う「雰囲気」だったので、興味をそそられなかった。(苦笑)

美術館内は、こんな感じになっていた。すんごい人!

もちろん、外にも人が並んでいた。

チケット売り場を見てみると、待ち時間80分の表示。

これだったら、開場前に来て並んでいる方が気分がいい。(笑)

この日だけでもかなりの人数が来場したいと思う。

5月下旬に50万人突破と言われていた。

でも、昨日の記事では60万人突破とか。

終わりに近づくに連れ、来場者が増えているようだ。

この国立新美術館、以前来たことあった。

さて、絵のことなんてよくわかっていないけれど、今回「本物」を観て感じたこと、思ったことを書いてみたいと思う。

大きなことで言えば、やはり本物を観るというのは大事だな、ということ。

明らかに画集とは違う。

また、かなりの至近距離でも観られたので、塗られ方やら細かいところまで観られた。

また、スラヴ叙事詩を画集で観ていた時は、先述の通り、「重くて」「暗い」という思いがあって、そんなに好きにはなれなかった。

でも、本物を目の前にして、今まで好きだった、リトグラフがあせて見えてしまうくらい。

ここに来るまでは、リトグラフ >>> スラヴ叙事詩だったけれど、今となっては、スラヴ叙事詩 >>>>>>> リトグラフとなってしまったくらいだ。(笑)

それだけすごかったのである。

また、スラヴ叙事詩の中でも、好きではなかった絵が一番好きになったり。後述。

何もかもがひっくり返ってしまって、不思議な体験をしたのである。

こんな大きな作品を、構図を狂わすことなく描けた、というのが驚き。

この人の頭の中はどうなっていたの?って思う。(笑)

人物は等身大のものが多く、そういうものはそれなりに描けると思うけれど、絵描き本人よりも遥かに大きい人物とかを描くのって、バランスをとるのが難しいと思うけれど、それがちゃんとしている。

すごいなぁ、と思ったのである。

今回、絵のサイズの問題で、1~6、7~14と16、15と17~20という振り分けになったのだろうけれど、とりあえず、初期、中期、後期、と勝手に分類してみる。

そういう分類をすると、それぞれの期ごとに絵に特徴があるように思った。

初期は、全体的に暗く、また、摩訶不思議系の絵が多かった。

特に次の3作品はそう。

これらは、普通の写実的な絵画とは違っている。

だって、浮かんでいる人達がいるからね。(笑)

で、その浮かんでいる人たちの色というか影の作り方が面白い。

普通であれば、明るい方が浮き立つのに、これらの作品に関しては、この影になっている人物群が浮いて見えるという不思議さ。

これに僕は心奪われてしまった。

特に3番目のものがそう。

普通であれば、その人物群は沈んでしまうのに、浮いて見える。
明るい背景の方が目立たないくらい。

色が黒というより、青系でそういう影的なものを表現している。

こういう表現方法もあるのか、といい勉強になった。

僕の中での好きな絵の結論を書くと、1番目のものって、画集で観ていた時はおどろおどろしく感じて、正直好きではなかった。

でも、何度も何度も全ての絵を観返して、結果的に、この絵が一番好きになった。

そして、魅力を感じた。

なぜだかはよくわからないけれど。(苦笑)

観ていると、金縛り状態になってしまう。

次に好きになったのが、3番目のもの。

次に、中期の作品群。

これらは、初期のものとは違って、普通というと変だけれど、写実的な絵画になっている。

例えばこういう感じ。

特に際立ってこれっという感じではない。
また、誰かが描いていてもおかしくないような写実的な絵。

だからか、この中期セクションは、全体的に大人しく感じた。
でも、これら「全てで」調和が取れているという印象。

際立ったものはないけれど、落ち着いた作品群。

今回不思議に感じたことの一つ。

この上の絵の真ん中ちょい左下にランタンがある。

これが、現場では「浮いて」見えていた。いや、本当に「光って」見えていた。

これだけではなく、光が当たったように見える絵のどれもが、浮いて見えた。

3つ上の右下の人達もそう。

ライティングも何もない状態、つまり、フラットな光の状態で見られないのでわからないけれど、これは照明の当て方の問題だろうか?それとも、そういう絵の表現なのだろうか?

初期の作品群とは違う、被写体の際立たせ方だ。

これも印象に残った。

次に、後期作品群の中で惹かれたのがこれら。

この上のものが、3番目に好きになった。
2つ上が、4番目に好きになった。

原点に戻ってか、また大きく浮いている人たちが幻想的に描かれている。

各セクションで絵画の絵の色が大枠で統一されているように感じられた。

全てではないけれど、大まかな印象は次の通り。

初期-全体に青暗い
中期-薄暗い色使いなので、華やかではない。決して暗い気持ちになるわけではないけれど、落ち着いた色合い。そして、ランタンのように、いくつかの被写体が光って見えたり、そういう光の当たり方のしているものがある。
後期-暖色系で、比較的明るく感じる

これは現場で実物を観た人ならわかってもらえるかなぁ...

最初観た頃は、やはり後期に目が行った。うん、いいなって。歓びも感じられるし。

でも、何度も行き来して見ているうちに、初期の作品群、特に、上記に出した3作品が際立ってよく思えるようになった。
初期の作品だから、気合いもかなり入っていただろうと思うし。

僕にとっての作品を観るための立つ場所は、作品から10mくらい離れて観るとちょうどいい感じになった。

5mだと、なんか違う。

やっぱり10mくらい離れて観るとちょうどいい感じ。

あぁ、こんな作品を飾れる大きな家がほしい!ずーっと眺めていられると思う。(笑)

中期の作品群の部屋には、真ん中に椅子があって、そこに座って観られる。

ここからちょっと細かく。

上の2番目のものの中に、ミュシャの娘がモデルになったものがある。これ。

あと、この作品は未完成と言われているらしい。

理由は、これらの人たちに顔が描かれていないから。

でも、ミュシャは、完成したから引き渡したわけで、これは意図的にこういう風にしたのではないの?と思うのだけれど、どうだろう?

次に、スラヴ叙事詩で、最も印象的なのが、「目」。

これはまだ穏やかな目をしているけれど、決して幸せな目ではない。

物憂げな目でこちらをしっかりと見ている。

こういうのがいくつもある。

そして、一番強烈なのが、1番目の作品のこれ。

目がギョロッとしていて、決していい印象は持てない。

でも、現場で本物を観た時、逆にこの目に惹かれてしまった...

ミュシャは一体どういう思いでこう表現したのだろう?

まだまだ書きたいことはあるけれど、大きく書くと、こういう感じ。

とにかく、本物を観られてよかった、という思いしかない。

感じたことをきちんと言葉に出来ればいいけれど、それが出来ないのが悔しい。

一つ残念だなと思ったのが、絵の位置がちょっと低いかな、と。

天井にぶつかるから仕方ないのかもしれないけれど、あと1m高くなっていれば、もう少し作品も見やすくなったかな、と思う。

上のギョロ目の2人が人の頭で見にくかったからね。

これだけが残念。

これらを観て、新たな欲望が湧いた。

そう、次はミュシャの故郷でもある、チョコで、プラハでもう一度スラブ叙事詩を観るぞ!というもの。

向こうであれば、ここまで混まないだろうから、じっくりと作品と対面できるのではないかと思う。

なんとかして実現させたいものだ。

もっと早く観に来ればよかった、と思った。

並んでいる時に、同じようなことを言っている人たちがいた。

確かにそう、人の多さを考えれば、3月に行っていれば、ここまで混んでいなかったと思う。

でも、思った。

「この時」だったから、今回のように色々と感じられ、思えたのではないだろうか?

もうすぐ終わる、どうしよう、という「極限状態」だったから、そう感じられたのではないだろうか?

って。

もし、3月に観に行っていたら、今回のような発見はなかったと思う。

追い詰められた状態だったから、ここまで感動できたのだと思う。

そうそう、銀ブラしている時に本屋に入った。

ふと見ると、ミュシャの画集が何冊かあった。

それらの中のスラヴ叙事詩を見てみると、なんか違う。

くっきりはっきりしすぎていて、やはり会場で見るのとは違うようだ。

会場で見た本物は、もっとほんのりと淡いんだよね。

それに比較的近い表現だったのが、僕の持っている小さい方の「ミュシャの世界」という本。

1番目の作品以外は、かなり雰囲気が近いと思う。

どの画集も、1番目の絵はくっきりしていて、なんか違うって思う。

この美術館での見せ方のように、ボヤーッとしている方が好印象。

美術館の外に出てみると、綺麗に晴れていた。

まるでその時の僕の心の中のよう。

が、どす黒い雲が見えていたのだけれど、まぁ、大丈夫だろうと思いながら、昼食場所へ。

その昼食を食べている時に、雨が降り出した。

そこには長居できないので、とりあえず外に出てみると、土砂降り!

ゲリラ豪雨だ。

なんで?と思って、六本木ヒルズに到着してから雨雲レーダーを見てみると・・・

なんとまぁ、僕がいる辺りだけ雨だった。(苦笑)

僕がいたのは、渋谷という文字の「谷」の右横くらい。

僕が世界の中心、という考えで言えば、このゲリラ豪雨は間違いなく、僕にとっての禊ぎ祓いの雨だったと思う。

もしくは、感動の雨。

ごめんね、東京。僕のせいで。(笑)

ちなみに、前日は、姫路で雷が鳴ったのである。
これも僕はいい方に捉えたのである。僕のために鳴ったんだなって。(笑)

今回は、本当に東京まで行ってよかった。

いいタイミングだった。

スラヴ叙事詩が帰国した頃に、絶対にプラハに行こう。

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