みをつくし料理帖と引き寄せの法則
予報を見ていると、この真夏日もしばらくお預けのようだ。
とは言っても、やっぱり暑いのはちょっとねぇ。(苦笑)
ちょっと夕焼け。
山の向こうに日は沈む。
昨日の「みをつくし料理帖」の続き。
普段、この手の話を露骨に書くことはないのだけれど、あえて書いてみようと思う。(笑)
色んな人のレビューを読んでいて、あまり触れられていない、あることに僕は気付いた。
この本、下手な、という言い方は変だけれど、下手な自己啓発本、スピリチュアル系の本より、人生を物語っていると思う。
最近、よく耳にするかもしれない、こういう言葉。
引き寄せの法則とか、シンクロニシティーとか。
この小説、まさしくその引き寄せの法則やシンクロニシティーそのものを描いる。
作者はそういうのを意識していたのかどうかわからないけれど、とにかくそういうものを感じさせられる小説。
いや、感じさせられるのではなく、そのものの小説。
時代小説の皮をかぶったスピリチュアル系小説だな。(笑)
引き寄せの法則って、イメージングしたり、思考したことが現実化するっていうもの。
でも、このみをつくし料理帖の場合は、そういうものとはちょっと違う。
引き寄せの法則でも、エスター・ヒックスがチャネリングしているエイブラハムの方の引き寄せの法則に近いと僕は思う。
簡単に仕組みを書くと、まず、コントラストが起こる。
このコントラストとは、澪の場合で言うと、「試練」。
例えば、火事であったり、指を切ったり、料理対決であったり。
そういうことが、まずは起こる。
すると、澪はそれに対して、どうしようか、こうしようか、と思案する。
そういう、こうしたい!という思いが願いとなって、宇宙に発せられる。これは、意識的、無意識的に関わらず。
これが、ヴォルテックスの中に蓄えられる。
日々の中でするべきこと、やりたいことをしていると、シンクロニシティー(誰かに会う、何かの食材がひょっこり手に入る、誰かの発言)が起こる。
そういうことを切っ掛けに、解決策が思い浮かぶ。
それをやると、いい形でまとまる。
ヴォルテックスの中から、その時に相応しい何かが現実化する。
ヴォルテックスは、過去、意識的無意識的に関わらず、コントラストが発生した時に放った望み・願望・願いが全て溜まっているところ。
波動が高くなると、その波動に相応しい何かが、そのヴォルテックスの中から取り出され、目の前に現れ、現実化する。
と、簡単に書けばこういう感じ。
この中に、色々とポイントがある。
まず、すぐに解決策は浮かばない。
日々の生活、料理をしながらも、あれやこれやと考える。
でも、澪はすぐにこうやって切り替える。
お客様に出す料理作りに専念しよう、と、問題についての解決策をゴチャゴチャ考えるのではなく、目の前のことに専念する。
これ、「いまに在る」という状態。
さすがに小説の中の澪の心の中まではわからないけれど、別の言い方をすれば、今を楽しんでいる、目の前の料理作りを楽しんでいる、という状態。
澪は、先述のイメージングや何らかの思考をして、解決しようとはしていない。
ただ、目の前のことをこなしているだけ。
そういうことをやっていると、ふと閃きが起こる。シンクロニシティーがあったりする。
このあたりが、エイブラハム流の引き寄せの法則だな、と思った理由。
エイブラハムの引き寄せの法則は、波動引き寄せの法則。
その人が出す波動に見合ったものが引き寄せられるのが、エイブラハムの波動引き寄せの法則。
例えば、本人は車がほしいな、と思っていた。
でも、その結果に執着しないで、日々楽しんで生活している。
そうすれば、波動が高い状態になる。
その波動に見合ったものが引き寄せられる。
本当にその車が引き寄せられるかもしれない。
でも、車が引き寄せられなくても、それに見合ったこと、それ以上のことが引き寄せられることがある。
本当は車がほしかったけれど、車なんて不要な状態、例えば、30年分のレンタカー無料使用権が与えられるとか、車なんて不要な場所で生活できるようになるとか。
結果に執着しなければ、こうやって、想像以上のものが引き寄せられる、宇宙から与えられる、というのが、エイブラハムの波動引き寄せの法則。
話を戻して、澪は結果や何かに執着していない。絶対にこうしよう、こういうことが実現するといいな、とは思っていない。
ただただ、それを解決したい、なんとかしたい、と思いながら、目の前の料理作りに専念している状態。
この状態を、別の表現にすると、ワクワクしている、楽しんでいる、例え、テンションの高い状態でなくても、心穏やかに静かにことにあたっている。
こういう時の波動は、とても高い状態。
波動引き寄せの法則は、極端な話、こうなってほしい!というイメージングをしなくても、その波動に見合ったものが引き寄せられる。
(実際に、澪はイメージングはしていない。当たり前か。(笑))
解決するまでに、解決の糸口になるような人との出会い、ばったり出くわしたり、何らかの食材が手に入ったり、誰かの言葉だったり、というのがある。もちろん、閃きも。こういうのがシンクロニシティー。
また、澪は結果やら何かに執着していない。
いい意味で、臨機応変。
その結果、想像していなかった料理が出来上がったり、想像以上の結果に繋がったりしている。
また、何か嫌なことが起こっても、決してそこでくじけない。ネガティブな波動を出していない。
そういう出来事に抵抗していない。ただ、流れに身を任せている状態。
その出来事は、澪の力では変えられないのだから、それを受け入れて、ただその流れに乗っている状態。
その中で何が出来るか、出来ることをやっていって、次に繋げていく。
全てを受け入れて、前に進んでいる状態。
目の前に起こった事象が嫌なことであっても、決して目を背けず、きっちりと受け止めている。
そうこうしているうちに、先述の通り、閃きやら何やらがあって、ことが解決する。
読んだ人によっては、こういう流れがあまりにも出来すぎている、と思うようで、不自然に感じられるらしい。
まぁ、小説だから仕方ないというか、そういうものだとは思うけれど、でも、引き寄せの法則をきちんと体験している人って、本当にこういうドラマチックな流れも経験することがあるようだからね。
次に、何らかの選択肢がある時、澪の場合だと、一番大事な選択肢となった、どの料理の道を選ぶか、という時、彼女は「違和感」というものを手がかりに決めていた。
そっちの道は本当に自分のやりたいことなんだろうか?
「違和感」を感じた方は選ばない。
そして、うん、こっちだ、という方を選んでいる。
これは、澪の真我(本心、御魂、内なる神、ハイヤーセルフとか色々な言い方がある)が本来求めているものを感じ取った状態。
その感覚を大事にして選択をしている。
目先の利益や世間一般の常識、周りの期待や思いを重視していない。それらに挟まれて葛藤はしてはいたけれど。
一番大事にしたのは、自分はどうありたいか?
その一点のみ。
それを、自分の真我から感じ取った。
こういうことが積み重なった結果、最終的に、10巻の最後のあのシーンへと繋がるのである。
これが、澪にとっての一つの「本願」の実現。
(澪の11巻以降の人生そのものの本願はまた別の話。11巻以降が出てくるかどうかはわからないけれど。)
その本願に行き着くまでに、あれやこれやと色んなことが起こっている。
でも、その一つ一つが、その本願に繋がっているので、どれが欠けてもダメなのである。
そういうエピソードをここで挙げてみたいけれど、ネタバレになるので書かないけれど。(苦笑)
ということで、澪のこの10巻分の歴史を振り返ると、色んなことが偶然のように起こっているように見えるけれど、全ては「必然」だった、ということになる。
先述の通り、どれか一つ欠けても、そういう流れには絶対にならないから。
と、人生論というか、最近流行りのスピリチュアル系のことに絡めてみると、こういう感じになる。
「みをつくし料理帖」には色んなエッセンスが入っている。
・波動引き寄せの法則
・シンクロニシティー(様々な出来事、人との出会いや別れ、食材との出会い等々)
・いまに在る
・ワクワクする、楽しいことをする(目の前のことに集中し、料理を楽しむ)
・流れに身を任せる
・真我からの閃き、感覚を大事にしている
とまぁ、こんな感じかな?
もうちょっと引いてこの小説を見てみる。
作者=真我
澪=作者にとっての小説の中での物理的な身体や心・精神
とする。
作者は、澪を通して、色んなことを経験したい、ということで、目の前に色んなコントラスト(現実や試練)を小説の中で現している。
これは、鏡の法則。
鏡の法則は、真我が経験・体験したいことを現実化する、というもの。
(ここで僕が書いているのは、一般的な鏡の法則、自分の内面が目の前に現れている、現実化している、というのとはちょっと違う。もう少し突っ込んだ深いところでの鏡の法則。)
真我(作者)は最終的にこういう経験をしたいと思っているとする。
すると、そういう経験が出来る方に澪を導かせる。
例えば、最終的にはこの人物と会わせたいから、そっち方面に行かせるように仕組む。真我(作者)はそういうシーンを作り出す。
澪自身は、なんでそっちに行くの?と思うけれど、真我(作者)の方では、その人と会わせたいから、「どうやっても」そっちに行かせるようにするのである。
そういう状況を、真我(作者)は現実化するのである。
試練の場合は、澪にとってはえらい迷惑だけれど(笑)、それでも、真我(作者)はその澪を通して、そういうことを体験・経験したい、という思いで、そういう試練をあえて作り出しているのである。
その方がドラマチックになるからね。
だって、小説で、ただひたすら淡々と寝て起きて、何かをして、という内容だったら、面白みも何もないでしょ?(笑)
この観点でこの小説を見ると、僕らが生きているこの世も、「みをつくし料理帖」の作者と澪の関係と一緒だよ、という風にも見られる。
小説はかなりドラマチックかもしれないけれど、僕達それぞれの人生も、それなりにドラマチックだよね。
だって、時には澪のような試練とまでいかないかもしれないけれど、それなりのことが起こる。奇跡だ!と思うようなことも起こる。
本人にとっては、嫌だ、逃げたい!と思うような試練かもしれないけれど、それを乗り越えた後は、やっぱりあれがあったからよかった、今の自分があるんだ、と思える。
僕達のこの世の仕組みって、小説と同じだな、と思えるのである。
特に、この「みをつくし料理帖」を読むと、そう思うのである。
ある意味、アホらしい解釈かもしれないけれど、いかにもっていう感じの自己啓発的、スピリチュアル教訓的な小説よりは、はるかにこの小説の方が面白いし、ものすごく自然にそういうことが盛り込まれているので、とても面白いのである。
上記の内容を頭に入れて読み進めてみれば、なるほど、と思うだろうし、違った楽しみ方が出来ると思う。
こういう観点でレビューしている人はほとんどいなかったので、僕が書いてみた。(笑)
この小説は、小説としても面白いし、こういう観点で見ると、更に面白くなるのである。
作者はこういう観点で小説を書いたのかどうかわからないけれど、お会い出来るなら、この辺のことを聞いてみたいな、と思っている。
彼女の他の小説、「銀二貫」や「出世花(続編の蓮花の契り)」も、こういうストーリー展開になっている。
これらも面白いのでオススメ!
前のBlogにも書いたけれど、「みをつくし料理帖」と「銀二貫」が絡むような小説を作ってほしいな、いや、直接絡まなくても、ひょっこり、それぞれの小説に、それぞれが出演するような小説を作ってほしいな、と思うのである。
僕的には、「みをつくし料理帖」は、普通の小説としての楽しみ方、料理(食材)を文字で味わう楽しみ方、裏の楽しみ方として、上述のスピリチュアル系の楽しみ方、と3つの楽しみ方があったのである。
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