悲愴
夜中、風が強かったみたいで、その音で何度か睡眠が遮られた。
今日はいい秋晴れの日中。
クラシック音楽聴き始めの頃に気に入って、早い段階で購入したCDが、チャイコフスキーの「交響曲第6番悲愴」。
確か、目的は、これではなく、一緒に入っていた「序曲1812年」だったと思う。
この曲の最後の大砲の音が「本物」かどうかが重要だった。
コンサートでは、さすがに本物の大砲は使えないからね。(笑)
と、この曲ではなく、「悲愴」について、へー、と思ったこと。
まず、チャイコフスキー本人は、この曲はとてもいい出来だ、と自信を持って初演したそうだ。
でも、あまり評判は良くなく、なんとまぁ、初演9日後にコレラで死ぬという「悲劇」。
チャイコフスキーの人生、特に晩年、での色んな悲劇的なこともあってか、「交響曲第6番」は「悲しい曲」という風になってしまったようだ。
でも、これは後付けのイメージ。
この曲を作っている時に、弟がこの曲に題名をつけた方がいいのでは?と提案。
その弟は、まさしく、曲の雰囲気を読み取って、「悲劇的な」という意味の題名を出したらしい。
でも、チャイコフスキー本人は違う、という思いがあり、楽譜の表紙には、「感動的な」「情熱的な」という意味のロシア語を記述し、そう名付けた。
「悲愴」というものとはまったく正反対の意味のものを名付けたにもかかわらず、どういう訳か、日本では「悲愴」という題名になってしまったらしい。
1925年に山田耕筰が取り上げた時には、既にその名前になっていたとのこと。
この曲の楽譜の第1楽章には、確かに、「Pathetique」という名前が付けられている。
日本に持ち込んだ人が、表紙の「感動的な」「情熱的な」というものを「見逃して」、もしくは、「誤って」「意図的に」、いや、曲の雰囲気で、その1楽章の「Pathetique」を採用して訳したのかもしれない、なんて、僕は勝手に想像した。(笑)
それにしても、チャイコフスキーが名付けた「感動的な」「情熱的な」と、今一般的になっている「悲愴」では全く違ったイメージになるよね。
正反対の題名なんて、なんとも面白い。
それぞれのイメージでこの曲を聴くというのも、面白い聴き方になるかもしれない。
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